劇場版「ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow」は作品を知らない沼津の人たちに観てほしい2.25次元のミュージカル!

「ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow」を観てきました!

というわけで、それについて書きたいと思います。少しネタバレがあるので未見の方は注意してください。

この映画はパラレルな「舞台版」

実は、この作品を観るのはもっと遅らせようと思っていました。

TVシリーズの予習を直前にはしていなかったので記憶が新鮮でなく、特に2期については見ていない回も多い状態でしたし、さらに、ネタバレを避けながらもうっかり見てしまった情報の中には、すごく感動するとか、作品によほど詳しくないと理解が難しいという感想もあったので、作品を熟知した万全の状態でなければ観てもよくわからないのかもしれないと思ったのです。

この作品が先代にあたるμ’sの映画「ラブライブ! The School Idol Movie」にそっくりだという感想もありましたが、そちらの映画も観たことがありません。

ですが、主人公の一人小原鞠莉ちゃんのママの設定がTVシリーズとは違うという情報もありました。

そのため、TVシリーズの内容を踏まえておらず、 今までこのシリーズを観たことのない、例えば沼津の人たちがこの映画だけを独立して観ることのできる作品なのかもしれないと考えて、 1月10日の仕事帰り、職場の近くであり作品の舞台でもある沼津の映画館シネマサンシャインに 観に行くことにしました。

上のような予断を持った状態で、自分よりもさらに作品を知らない沼津の人々ならどう観るのかを意識しての鑑賞でしたが、観終わってみると、やはり初めて作品を観る人にもわかるように作られていたばかりか、初回の鑑賞の仕方としてはそれがひとつの正解だったのではないかと思いました。

TVシリーズのモチーフが随所に隠され、またストーリーの節目節目がTVシリーズと符合するようになっているという鋭い指摘も目にしましたが、それはTVシリーズをよく知る人に宝探しの楽しみを与えるだけでなく、TVシリーズの数々の要素を、そしてTVシリーズが描いた Aqours の物語を、この作品のみを観た人にも伝えようとしているのだと受け止めました。

TVシリーズのその後の話という形をとりつつ、TVシリーズの続きを描いた長時間スペシャルではなくて、本編とはある程度パラレルとして、作品全体の濃い部分をひとつに凝縮し、これのみ単独で観る人にこそわかるように作られた作品……それは近年いくつも作られている、アニメ作品の「舞台化」に似ています。

アニメらしからぬ舞台風の演出

さらに、この作品自体が舞台劇を意識して作られているように思うのです。

アニメの舞台化が2.5次元なら、アニメの舞台化のアニメなので2.25次元くらいでしょうか?

それのよくわかる冒頭部分は無料で公開されました。

冒頭、幼少期の2年生組による幻想的シーン。

舞台であれば、幕が開き演者の登場前に声だけが流れている場面でしょう。

この作品でも、画面では喋る時の顔を映していません。

そこから廃校を控えた浦の星女学院の閑散とした様子を数カットで紹介しての体育館シーンは、演者が舞台に出てきた瞬間です。

2年生組3人の掛け合い、1年生組3人が順番に見せるコミカルなリアクション、幕開けを告げる3年生組3人の口上は、アニメというよりお芝居のもの。

最初にスポットライトが当たり動き出す千歌ちゃんの周囲では、まるで舞台のようにその場に静止して光が当たるのを待っている他のメンバーが描かれています。

そこから始まる歌のシーン。

1人が歌っている時に左右のメンバーが横でポーズをとって止まっているところなど、 振り付けも アイドルアニメのライブシーンとは異なるミュージカル調ですし、 カメラの動きもアニメというよりは実写風な感じがします。

自分たちが何者でありどういう状況にあって何をしていくのか……これから始まる物語の概要を説明する歌詞と、曲中のそれぞれの場面に合わせ緩急のついたメロディ……。

ラスト近くでは「幕が上がったら~」という歌詞と実際に幕の開くシーンもあり、高らかなブラスにドラムロール、グリッサントを奏でるピアノなどは、ミュージカルの開幕の雰囲気が濃厚に感じられます。

画面では、作品の主な舞台となっている内浦をはじめ、沼津市街や伊豆長岡駅といったおなじみの場所でメンバーがミュージカルを演じ、そこを埋め尽くして踊る多数のアンサンブル(アニメで言う所のモブ)の少女が物語の幕開けを華やかに盛り上げます。

今回メインとなる6人のメンバーがこのシリーズの舞台となった場所を駆け抜ける様子が所々に挟まれ、1~2人でそれぞれTVシリーズや楽曲PV、そして現実世界での盛り上がりの中でのそれぞれのゆかりのある場所を紹介するように踊るパートもあり、ファンが作品の舞台を訪れた際に出会う実在の方々らしき人がカメオ出演しています。

この作品のルーツであるμ’sのアニメのモチーフを使った場面も入っていますね。

沼津を、そして「ラブライブ!」を丸ごと讃える、豪華なオーバーチュア(ミュージカルのオープニング曲)です。

オープニング以外にもスクールアイドルの映画らしく歌の場面が出てきますが、いずれも作中行われたライブを描いたというよりは、作中の現実とは切り離され、時に周囲の人々までがともに演じるミュージカル的なシーンとして描かれています。

あのμ’sのアニメ第一話で強い印象を与え、Aqours でも何回か披露されたミュージカル風の演出を、ふんだんに盛り込みメインに据えた映画といえるでしょうか。

そして歌以外の場面も、アニメと異なり舞台風に、作中の現実にとらわれない芝居がかった演技で、また、実際に人物が演じているかのように、アニメなら要らないような場面までを描いているように見えました。

オープニング曲直後、沼津駅前でのシーンでは、最初に2年生が登場した後、1年生が加わりますが、その際になぜか物陰に隠れていて、そこから登場します。

これは、冒頭の人物紹介的場面で追加の人物が舞台袖から出てくるのを表現したのではないでしょうか。

そして序盤の、曜ちゃんが謎の少年(実は……)とともに歩くのを隠れながら追うメンバー。

バレバレのかくれんぼ……まるで「だるまさんが転んだ」のようなシーンは、「志村後ろ後ろ!」のように、作中の現実ではなく、演者が気づきつつも気づいていないかのように演じているように思えます。

また、イタリアの隠れ家での鞠莉ちゃんと鞠莉ママとの対決の時には、場面展開に合わせて揃って立ち位置を移動する他のメンバーが描かれていました。

通常のアニメが「作中の現実」を描く際には存在しない、現実の人間が台本に合わせ演じているのを表現するシーンのように思います。

また、多くのシーンでは、実際の舞台のセットが固定されているように、意図的に場所を限定し、動き回らずそこにとどまって演じるよう描かれています。

たとえばイタリアに行く時には、空港や飛行機の場面が出てこず、まるで舞台を暗転させ切り替えた時のように、いきなり「イタリアのセット」に変わります。

隠れ家を突き止めたマリーママの登場時、恐らくはバイクに乗ってきたのにそのバイクが描かれず、音だけだったのも、舞台の制約の再現でしょうか。

一方で、ヘリが降りてきたという大仕掛けの場面がありましたが、そういう大仕掛けが実際に「ミス・サイゴン」の舞台で披露されたことがありました。

コインチョコのように何かが大量に降ってくるのも、紙吹雪あるいは発泡スチロールの雪など舞台でありそうなものです。

舞台劇のように限られた出演者

登場人物も、まるで舞台劇のように主な演者が少人数に絞られ、他の人物の関わる周囲の事情は語りなどにより説明されます。

鞠莉ちゃんの結婚相手も父親も、普通のアニメなら絵だけでも出てきそうなものですが出てきません。

Aqoursメンバーの家族も、千歌ちゃんのお姉さんや飼い犬がオープニングのカメオ出演や千歌ちゃんの家のシーンに登場した程度です。

そんな中で、鞠莉ちゃんのママのような登場シーンの比較的少ない年長の悪役がベテランの配役になっているところも舞台風ですし、ストーリー上重要な準主役として月ちゃんという新しい登場人物が配されているのも「既存作品を舞台化したとき」によくありそうです。

鞠莉ちゃんのママはそれほどの大義が描かれず、邪魔をして主人公たちの平穏を破ることでストーリーを作り、その後比較的素直に屈服する、舞台劇らしい悪役です。

鞠莉ママは原作やTVシリーズでは日本人であったところ、この作品では本来は父親の設定であるはずのイタリア人として描かれていますが、これは基本的に女性キャストで演じられるこの作品において、主要人物としてイタリア人のママを出し、余計な説明無しで鞠莉ちゃんとイタリアの関係を示すためでしょう。

その点も、この作品がラブライブ!サンシャイン!!の予備知識を持たない人にも配慮されているのだと思う理由です。

今回初出のオリジナルキャストである月ちゃんは、同じく今回初めて重要な要素となる統合先の学校「静真高校」を象徴する役目ですね。

メンバーの従姉妹であり、作中多くのシーンで行動を共にする準主役であれば、静真高校という主人公たちから見て外部の存在を観客に印象付けるのに適任です。

そしてセイントスノーは特別出演の立ち位置でしょうか。

副次的エピソードで関わり、かっこいい見せ場を決め、主人公たちと相互に影響を与えあって去っていきます。

函館での2人、旧公会堂前でのやりとりから「同じセット」のまま歌のステージとなるのは、舞台の制約ともいえるものを再現しながら、むしろ深い印象を与えるシーンでした。

舞台劇らしいストーリー

作品の内容は、私は単純明快なハッピーエンドとして受け取りました。

必然性や現実味のための説明は、舞台という時間空間的に凝縮された場で演じているという前提で大胆に省かれています。

小原家の枠を飛び越えてしまった鞠莉を心配する母、スクールアイドルを認められない静真高校の父兄などは、細々とした事情は語られずリアリティもそこそこに提示される、お芝居らしい障害として登場します。

それに対してAqoursは、成長を遂げ、周囲の心を動かして協力を得て、歌うことで認められます。

作中スクールアイドルとして歌う場面は、ミュージカルとしてはストーリーの一部、その歌詞は心からの主張や訴えの場面でもあり、それが相手の心を開くのです。

この流れは、μ’sによる「ラブライブ!」の世界に新たに Aqours が登場した時のようでもあるし、何より、 舞台に選ばれた沼津にこの作品が到来して受け入れられ、この作品が上映されている今のように盛り上がるまでの状況のメタファのように思えます。

この作品で、様々な経験を経た Aqours メンバーと理亞ちゃんは、失われても永遠に残るものを見出します。

廃校となった浦の星女学院や、卒業してしまった3年生をとりあげて描かれたそれは、普遍的なテーマでありつつ、沼津と Aqours の未来がそうあるようにというこの作品のメッセージなのではないでしょうか。

それを暗示するように、ラストでは内浦の砂浜を訪れた名も知らぬ少女の心に Aqours が残っていたことが描かれます。

沼津を知っていてラブライブ!を知らない人にも贈られた物語

この作品は一応TVシリーズの後日談ではあるのですが、最初の方で挙げたように別の「世界線」での話でもあり、過去の経緯はすべて作中で説明されます。

TVシリーズを観た人はそれを「知ってるから」と聞き流してしまうかもしれませんが、浦の星女学院の廃校、それに抗い奇跡を起こしたAqoursの足跡を「作中語られる過去」から想像するというのが、この映画に想定された一つの観方だと思うのです。

それは、この作品を受け入れ支えてくれた沼津の人々の視点を意識しているように思います。

原作である電撃G’sマガジンの記事やそれをもとにしたコミック版のような、既に母校が廃校確定しているという寂寥感の漂う作品世界で、かけがえのない過去を失い、取り戻そうとする登場人物たちが繰り広げる物語という、TVシリーズとは異なる「ラブライブ!サンシャイン!!」として、ぜひ観てみてほしいと思います。